里山

里山と聞くと多くの人びとは、人と自然がうまく共生した自然環境のことを思い浮かべるのではないだろうか。里山は、集落に結びついた二次林や二次草地で、豊かな生物多様性の風景として日本では一般的に知られている。

里山という言葉が初めて文献のなかに登場するのは、1759年に木曽の役人、寺町兵衛が山村の暮らしを記録した「木曽山雑話」である。このなかで里山は、集落の周りにある日常的に村人が利用する山林を指す言葉として使われていた。

里山には、自然の景観とともに、生活スタイル、文化的価値、伝統的知識や資源管理などの意味あいが含まれていた。その後廃れつつあったその言葉は、1960年代に森林生態学者の四手井綱英がよみがえらせた。

日本列島において、継続的に人間の手が入る森林が出現した時期は、少なくとも縄文時代までは遡ることが出来る。三内丸山遺跡の研究によって、この遺跡に起居していた縄文人集団が近隣の森に栽培種のクリやウルシを植えて利用していたことが明らかとなっている。

しかし歴史時代に入るとともに日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していくこととなる。最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇の6年(676年)には南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。

だが日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている。