國體護持塾

國體護持塾序言より

我々の認識世界には、直觀世界と論理世界とがある。つまり、論理を積み上げて眞理を認識する世界と、論理を飛び越え、あるいは論理の盡きたところで、經驗と閃きによつて眞理を認識する世界の二つがある。直觀は本能に、論理は理性に、それぞれ根ざすものである。また、眞理發見のための推理方法として用ゐられる歸納法は直觀世界に親和性があり、演繹法は論理世界に依存性がある。

哲學や數學において、直觀か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直觀主義と論理主義とが對立してをり、特に數學基礎論にあつては、數學を論理學の一部と見るか、あるいは論理が數學的直觀によつて歸納されるのか、として鋭く對立してゐる。これは、數學の體系を構築するにおいて、いづれかの構造選擇が必要とされるからである。しかし、この對立自體が論理世界での現象なのである。つまり、論理世界においては、排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などで貫かれてゐるので、この對立は、やはり論理世界の住人同士の對立と云へる。

しかし、現實世界は、直觀か論理かといふ二者擇一の世界ではない。直觀世界を解明しようとして、これまで多くの人々が試みてきたが達成できなかつた。法律學、憲法學、政治學、經濟學などの社會科學もまた論理學を基礎とするものであり、論理世界から直觀世界を解明し、眞理に到達することには構造的な限界があつたのである。

歴史的に見ても、人々は、その人生を演繹的な論理のみを驅使して生きてはこなかつた。むしろ、特に、人生の岐路に立つたとき、あるいは緊急時においては、演繹的な論理を捨てて、瞬發的に歸納的思考の本能的な直觀によつて岐路を選擇し歸趨を決してきたのである。そのことに必ず眞理があるはずである。

オントロジズムといふ哲學上の立場がある。存在論主義(本體論主義)と譯されてゐるが、これもプラトン以後の哲學でみられる直觀論である。これは、時空間において「有限世界」の現世に生きてゐる人間が、論理的かつ客観的には認識不可能な「無限世界」の存在(藭)を論理で捉へることはできず、それは純粹直觀でのみ捉へることができるといふものである。人間が論理的に認識しうる最大の數値があるとしても、それはあくまでも有限の數値であつて、決して無限の數値といふものはない。無限を認識しうるのは論理ではなく直觀である。このやうにして、人間は直觀世界に居ることを認識し、論理の危ふさを歸納的に實感するのである。

この直觀と本能に關連して、「刷り込み」といふ言葉がある。これは、生まれて間もない時期に、接觸したり目の前に動くものを親として覺え込んで追從する現象のことである。たとへば、極端な例として、狼に育てられた人間の子供が、狼を親と認識し、その行動樣式も狼をまねて同じになるといふやうに、授乳期に自己に乳を與へる授乳者を親と認識してしまふといふやうな學習の一形態である。このやうな本能と學習の研究は動物行動學(エソロジー)と云ひ、ノーベル賞受賞學者のコンラート・ローレンツがそれを科學的理論として確立した。そして、「種内攻撃は惡ではなく善である。」ことを科學的に證明した。つまり、「本能は善」であることを科學的に證明したのである。

「天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に率ふをこれ道と謂ふ。道を修むるをこれ教へと謂ふ。」(中庸)。これも本能は善であり、惡は理性の中にあることを説く。性善説とはこのことを云ふのである。それゆゑ、善惡の區別と定義は、本能に適合するものを善、適合しないものを惡とすることになる。

平成21年9月23日記す 南出喜久治国士