高砂義勇兵

台湾の日本統治時代、タイヤル族ルカイ族アミ族パイワン族などオーストロネシア語族の9つの原住民族は、総称して高砂族と名付けられた。

主に山岳地帯に住み、勇猛な性質と、首狩りの習俗を持つことで恐れられていた。各民族の言語は言語学的に大きな隔たりがあるため意志の疎通は不可能。そのため戦前に日本の教育を受けた世代の共通言語は今でも日本語でした。

高砂族が属するオーストロネシア語族とは太平洋に散らばる島々で話されている諸言語で、
かつては、マレー・ポリネシア語族と呼ばれていた。

最近になって、高砂族の諸言語が、マレー・ポリネシア語族と近似関係にあることが判明し、語族の地域を拡大し、オーストロネシア語族(南島語族)と呼び方が変わる。

オーストロネシア語族に属する言語は非常に広範囲である。西はアフリカ大陸の南東に位置するマダガスカル島から東はモアイで有名なイースター島まで、北はハワイ諸島から南はニュージーランドまで分布している。

その中で台湾の高砂族の諸言語は、言語学的にオーストロネシア語族の中でもっとも古い形を留めている。

オーストロネシア語の故郷は中国南部または東南アジアとされており、台湾にオーストロネシア語の古い形が残されていることから、オーストロネシア語族の先祖はまず台湾に渡り、そこから各地へ広がったのではないかと考えられている。

航海に長けたオーストロネシア語族の先祖は季節風などを利用して各地へ分散し、4世紀頃にはイースター島に、5世紀にはマダガスカル島に到達した。

6世紀初めに書かれた記紀古事記日本書紀)には、九州南部に勢力を持っていた隼人と呼ばれる種族について書かれている。隼人はインドネシアポリネシアの民族と類似する点が見られることから、黒潮に乗って海を渡って来たのではないかと考えられている。

例をあげると、勇猛で知られた隼人の盾に描かれた逆S字の文様は、インドネシアの山岳地帯にある高床式住居の彩色彫刻の文様と酷似しており、盾の形もよく似ている。また、隼人の顔面への入墨の記述は、高砂族に残る入墨の風習に類似している。

記紀に書かれた山幸彦と海幸彦(初代神武天皇の祖父)の兄弟の物語で、失われた釣り針を求めて海の向こうにある国へ探しに行くくだりはインドネシアミクロネシアの諸島に伝えられている物語と酷似している。

記紀では、隼人は海幸彦(兄)の子孫であり、天皇家は山幸彦(弟)の子孫であると書かれている。物語は古くから海洋民族が日本に居住していたことを伝えており、日本もこの海洋国家群のひとつであったことが分かる。

 

▽日本統治時代▽

台湾は清から割譲され、日本領土に組み込まれ、日本による台湾統治(1895〜1945年)が始まる。

当事の台湾には、漢民族高砂族高砂族のなかで漢民族に同化した平埔族(へいほぞく)がいた。

日本政府は台湾に対して近代化と教育を柱に台湾統治を推し進める。鉄道、道路、下水道建設、産業振興などの近代化政策は、のちの工業国としてとの足がかりを築く。。

西欧では、宗主国に対して反抗を起こさないよう愚民政策をとるのが一般的たが、日本は台湾を沖縄や北海道などと同じと考え、初等教育の普及に力を入れ、日本国民同胞としての皇民化教育を行う。

結果、日本統治時代の就学率は最高で92%にまでに達している。尚、400年もの間オランダの植民地であったインドネシアではわずか3%、現在のラオスは77%だ。

当然のことながら、台湾に突如現れた外来政権への抵抗は激しいものがあった。台湾に住んでいた漢人高砂族は帰順を拒み、独立運動や抵抗運動を各地で起こした。反乱と鎮圧が幾度なくとも繰り返され、漢人が恭順を示すようになってもなお、高砂族は遅くまで抵抗運動を続けた。

無数の犠牲者を出しながら、徐々に平定され、時の経過ともに高砂族は日本国民として同化していく。

 

高砂義勇兵

1941年、太平洋戦争突入。翌1942年、ジャングルでの密林戦に悩まされていた日本軍は、山岳地帯で生活し、森に詳しい高砂族の力に着目。当時はまだ徴兵制度も志願兵制度もなかった。

高砂族を対象に志願兵を募ると、募集をはるかに上回る志願者が殺到した。彼らは高砂義勇隊として戦地に赴く。森に暮らす彼らにとってジャングルは庭のようなものだ。

卓越した身体能力に、ジャングルの中で生き抜くための動植物の知識。同じオーストロネシア語圏である現地住民とのコミュニケーション能力。そして何よりも生来の勇猛さと死をも恐れない勇敢さで目覚しい成果を上げた。しかし、その勇敢さゆえに、戦死者も多く、4000人が出征して、3000人が戻ることがなかったと言われている。

1945年、日本ポツダム宣言受託。台湾「放棄」、「日本人」として戦った彼らの戦後は悲劇でした。

日本人は去り、大陸から国民党がやってくる。日本国籍中華民国国籍となる。国民党による統治は、反日政策が採られたため、日本のものを持っていることさえも禁じられた。日本人として当然受けられるはずだった軍人恩給や補償も、国籍を失ったため何の手当てもなかった。

さらに、1972年に、日本が中国共産党率いる中華人民共和国との国交を樹立したため、中華民国の台湾と断交になり日台間は疎遠になる。

1974年、最後の日本兵帰還。横田伍長がグアム島で「発見」されたのに次いで1974年、小野田少尉がフィリピン、ルバング島で「発見」され大きなニュースとなる。

実はこのすぐ後にもうひとり日本兵インドネシア、モロタイ島で「発見」されている。
高砂族アミ族)出身の中村輝夫(民族名:スニヨン)氏だ。

敗戦を知らないまま、ジャングルに潜み30年の月日を孤独に耐えながら生き抜き、故郷の台湾に生還する。台湾に戻って知ったのは、自分の名前が「李光輝」に変わっていること、高砂族出身であるために自分はもう日本人ではなくなってしまったことだ。

当時の日本は台湾と断交状態になった微妙な時期で、日本政府は日本人として長い間戦いを続けてきた彼を、「日本人ではない」ことを理由に冷遇する。また、当時の台湾は激しい反日政策のため、生まれ育った頃とはまったく違う価値観を押し付けられていた。

30年間、信じ守り続けてきたものが崩れさり、帰国してわずか4年後、失意の中で亡くなる。

1992年、慰霊碑建立。タイヤル族の女性頭目であった周麗梅(日本名:秋野愛子)さんが、大東亜戦争で戦死した高砂族兵士の慰霊のため「台湾高砂義勇隊戦没者英霊記念碑」を建立する。長い歳月をかけ、多額の借金をしてまで、慰霊事業と記念碑の維持に力を注ぐ。

2004年、慰霊碑撤去の危機。2003年に東アジアに猛威を振るったSARSがこの慰霊碑の存続に思わぬ影響を与える。SARSで日本人観光客は激減、慰霊碑の土地を提供してきた観光会社は立ち行かなくなり倒産。そしてさらに、慰霊碑を守ってきた周麗梅さんが亡くなったことで、慰霊碑は今、撤去を迫られている。

日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしているが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしている。