インパール作戦

肉を切らして骨を断つ!!

インパール作戦といえば、日本陸軍が、兵站を無視した無謀な戦いを挑んだ挙句、ボロ負けして、多くの日本の将兵が飢え死にした作戦というのが、一般に知られている意見のようだが、事実関係をよく調べてみると、無謀な戦いどころか、実は中盤戦まで日本側が優勢でした。さらには、あと一歩前進していれば、日本軍が勝利した可能性が高い。

英国の勝利は、紙一重でした。

インパール作戦を語る上で、忘れてはならないのが、7万の日本の将兵が敗退して通った街道で、4万人が死んでいる。しかしながら、街道筋で、私たちの若き日の父祖たちは、自らの命を犠牲にしても、民家をただの一軒たりとも襲っていない。

彼らにしてみたら、そんなことは「あたりまえ」なことにすぎないのだが。

怪我をし、腹をすかせ、マラリアに罹患して高熱を発している状態で、ちゃんと武器だけは、彼らは携帯していた。街道筋の民家からは、食事時ともなれば、おいしそうなかまどの煙が立ちのぼる。民家に押し入り、銃をつきつけて、食い物を出せ!とやれば、おそらくは腹いっぱい飯も食えたでしょうし、満腹したら、その家にいる若い娘を強姦することもできたかもしれない。

けれども、日本兵は、ただのひとりも民家を襲うような破廉恥な真似はしなかった。これは世界史でみたら、まさに驚異だ。ありえないことでなのだ。支那畜、朝鮮、露助とは、大違いだ。

彼等の行状をみて、戦闘相手の英国軍は、僅差でインパール戦に勝利したが、戦勝祝賀会のようなものは行っていない。また、25万の軍勢が対戦した英国きっての大陸戦でありながら、英国ではインパールの勝利を記念日にさえもしていない。

英国は、東京裁判において、自らの支配するインドから、パル判事を送り込んでいる。パル判事が書いた判決は、存知の通りだが、何故、被植民地の判事が東京裁判に選ばれたのか?何故、英国は、パル判事の書こうとする判決内容をあらかじめ知悉していながら、彼が判決を書くことを容認したのか?